ルミナリエと阪神淡路大震災その133 長田区その32
焼け野原となった鷹取商店街周辺
焼け野原となった鷹取商店街周辺
またあの日がやってきた。あれから29年たった。でも昨日のように思える。
今年はルミナリエがクリスマス前から震災のあった1月になった。
本来の震災で亡くなった方々の鎮魂の趣旨に戻ってよかった。
最近は若者のクリスマスデートイベントになっていたのは気になっていた。
長田区本庄町2丁目1−1大国公園内から北東を写す
左端の焼けたビルは高橋病院(現在サンクチュアリ鷹取)
能登半島地震の輪島と同じ 電柱以外は火災現場で見られる柱がない。
燃えるに任せて燃えるものがなくなって自然鎮火であった。
地震の際は火災が起きても消防は来ない。輪島も繰り返した。
阪神大震災直後は大勢の人が家屋の下敷きにはなっていたが生き延びていた。
が助けられずに焼死した。
大規模直下型地震ではこうなるとすでに実例でわかっていたが輪島で繰り返した。
1981年以前に建てられた住宅は補強すれば大規模直下型地震でも崩れず火災が起きても逃げれる。
能登半島は昭和の建物だらけみたいにみえる。地震で崩れた住宅はみな古そうな感じだ。
燃えるに任せて燃えるものがなくなって自然鎮火であった。
地震の際は火災が起きても消防は来ない。輪島も繰り返した。
阪神大震災直後は大勢の人が家屋の下敷きにはなっていたが生き延びていた。
が助けられずに焼死した。
大規模直下型地震ではこうなるとすでに実例でわかっていたが輪島で繰り返した。
1981年以前に建てられた住宅は補強すれば大規模直下型地震でも崩れず火災が起きても逃げれる。
能登半島は昭和の建物だらけみたいにみえる。地震で崩れた住宅はみな古そうな感じだ。
対策は可能で実施も容易だ。
でも実感がなく個人ではお金がかかるからかほとんどの人が補強の判断はしない。
最近は能登半島の避難所の報道ばっかしだ。
生き延びた人は後は行政がなんとかするのでほっといても大丈夫だ。
日本人がトラウマになるくらい、もっと崩れた家屋や火災跡や津波跡を視聴者から苦情が来るくらい報道したほうが将来命を助けることになるだろう。
神戸の震災でタブーとされたのか大勢の人が家屋の下敷きにはなって焼死したことの報道はほとんどなかった。だから日本人は大規模直下型地震が起きたらどうなるか知らないみたいだ。家屋に挟まれ痛みに苦しみながらさらに煙に苦しみ生きたまま焼かれ死ぬのだ。火災(や津波)が近づくと皆逃げるので誰も助けてくれない。
昭和の木造住宅は補強したほうが良い。
でも実感がなく個人ではお金がかかるからかほとんどの人が補強の判断はしない。
最近は能登半島の避難所の報道ばっかしだ。
生き延びた人は後は行政がなんとかするのでほっといても大丈夫だ。
日本人がトラウマになるくらい、もっと崩れた家屋や火災跡や津波跡を視聴者から苦情が来るくらい報道したほうが将来命を助けることになるだろう。
神戸の震災でタブーとされたのか大勢の人が家屋の下敷きにはなって焼死したことの報道はほとんどなかった。だから日本人は大規模直下型地震が起きたらどうなるか知らないみたいだ。家屋に挟まれ痛みに苦しみながらさらに煙に苦しみ生きたまま焼かれ死ぬのだ。火災(や津波)が近づくと皆逃げるので誰も助けてくれない。
昭和の木造住宅は補強したほうが良い。
現在 焦げていた公園のハット型欄干(車止め?)は今もそこに残っていた。左下
上の写真右下に欄干が写っている。
長田区海運町3丁目1−2 右の焼け残りの鉄骨はヘアーサロン芳子の店
たしかカトリック鷹取教会から写したと思う
この辺りも燃えるに任せて燃えるものがなくなって自然鎮火であった。
地震四日後でまだ煙が漂い真冬だが熱がこもっていた。
たしかカトリック鷹取教会から写したと思う
この辺りも燃えるに任せて燃えるものがなくなって自然鎮火であった。
地震四日後でまだ煙が漂い真冬だが熱がこもっていた。
阪神淡路大震災その132 長田区その31
(その47 長田区その14 全面改定版)
2010年6月29日阪神大震災その47長田区その14を写真を追加してかつ写真の品質を上げて現在写真を追加して内容も改定した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阪神大震災写真集 その47 長田区その14
焼け野原となった鷹取商店街
長田区大橋10丁目2付近から撮影
4枚の写真をつないだ 右が東 左が西となる。
当時あまりにも焼け野原が広大すぎて写真を写しながら自分が西から東へ回った。
焼き付けた紙の写真をつないだが各写真微妙に縮尺が違うので境目は少しずれている。
冗談のCG画像ではない。現実の写真。
本当にこんな恐ろしい火災が大都市で起こるのである。
現在
現在
携帯の普及していない時代なので連絡を取るのが難しかった時代だ。
雨にぬれても大丈夫なようにビニール袋で覆ってあった。
「明石へ来てください。とにかくどこでもいいから連絡を」
明石の親族が心配になって訪れたが家が焼けていた。避難所を探したが会えなかった。と思われる。
はたして無事に会えたのであろうか
阪神淡路大震災その131 東灘区その11 世界長酒造の最後
(その61 東灘区その5 改定版)
(その61 東灘区その5 改定版)
今日またあの日がやってきた。あれから29年たった。でも昨日のように思える。
私はもう老いた。 もう過去の話になった。 今は昔
元旦早々能登半島地震が起きた。あれから一週間だが被災地の映像がたくさん配信された。
陸地直下型地震だったので阪神大震災と同じ状況を私は想像した。
数日後テレビで画像を持た限りでは阪神大震災で潰れた家屋とそっくりであった。
数日後テレビで画像を持た限りでは阪神大震災で潰れた家屋とそっくりであった。
阪神大震災の教訓で補強されているかもと思ったがされていないようだった。
やはり個人の財源では難しいことが証明された。
やはり個人の財源では難しいことが証明された。
阪神大震災は家屋に挟まれた負傷者は救急車やレスキュー隊や自衛隊は24時間以上絶対来なくて放置され息絶えた。 まったく同じことが能登で発生した。
輪島の朝市市街地火災はも阪神大震災の火災と全く同じだった。驚いた。
火災が発生しても阪神大震災では消防車は24時間以上絶対来なくて放置され燃えるに任せて自然消火した。まったく同じことが輪島で発生した。
テレビで画像を見たが普通火災で残る柱が見当たらない。燃え尽きたからだ。
阪神大震災の火災現場と同じで消防やレスキューは来ないので生きたまま火災に巻き込まれたケースが多数あったのではないか。
阪神大震災の火災現場と同じで消防やレスキューは来ないので生きたまま火災に巻き込まれたケースが多数あったのではないか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2013年1月1日 阪神大震災 その61 東灘区その5
世界長酒造の最後
世界長酒造の最後
年が明け、1月になった。
またあの日が近づいてきた。
他府県の人は知らないだろうが かつて神戸には世界長という酒のブランドがあった。
長田、兵庫の酒屋、立ち飲み屋には世界長と書いたのれんや看板が至る所にあった。
安くてうまい酒のブランドであった。
しかし地震で世界長酒造は壊滅的な打撃を受けそのまま廃業してしまった。
当時は日本酒といえば灘神戸であったが、地震でどの酒造メーカーも建物が江戸期以前であったため壊滅した。
震災後灘の酒造メーカーが苦しんでいるあいだに日本中の酒造メーカーが力を伸ばし
現在は日本中の酒屋、飲み屋でいろんな地方の日本酒が普通に飲める。
地震は企業に致命的な影響を与えるのである。
倒壊した世界長酒造
江戸期の文化財としても貴重な酒蔵が崩壊した。
燃えていないのでなんとか修復すれば再建できそうだが当時は神戸じゅう崩壊だらけで余裕がなく残念ながら解体された。
東灘区御影本町2丁目7-30あたり
現在地は分譲住宅やマンションになっている。
御影ブライトハイツが当時のまま残っていたので撮影場所と方向を完全に特定できた。
御影ブライトハイツが当時のまま残っていたので撮影場所と方向を完全に特定できた。
崩れた酒蔵 写真ではわかりにくいが鉄のタンクが瓦礫の中に多数見えた
現在世界長酒造の跡は阪神御影駅前の一等地であったためイズミヤ、ニトリ、エディオン等のショッピングモールや住宅やマンションになっている。
兵庫県予防医学協会が当時のまま残っていたので撮影場所と方向を完全に特定できた。
かつてここに世界長酒造があったことを知る人は減った。
さようなら 世界長
わたしは わすれない
リンク集
最新記事
アクセスカウンター
- 今日:
- 昨日:
- 累計:
アーカイブ
カテゴリー
記事検索
読者登録